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傲慢な紳士のバターミルクフライ — 宮沢賢治「注文の多い料理店」より
「食べられちゃえばよかったのに」と、少しだけ残念に思った全ての方へ。本日は、宮沢賢治の不朽の名作「注文の多い料理店」より、「もし山猫軒のオーナーがクッキングに成功していたら」について考えてみたいと思います。
倒れた猟犬たちが助けに来てくれたことで間一髪、難を逃れた紳士たち。
しかし助けが来なかった場合、いったいどんな紳士料理ができあがっていたのでしょうか。
物語の面白さを味わいながら考察したいと思います。
山奥へ狩猟に来た二人の紳士。霧の中で道に迷い、一軒の西洋料理店「山猫軒」を見つけます。
「どなたもどうかお入りください」という言葉に誘われ、空腹の二人は奥へ進みますが、次々と現れる扉には「金属類を外せ」「クリームを塗れ」「塩を揉みこめ」と奇妙な注文ばかり。
「自分たちは客ではなく、食材である」と気づくも時すでに遅し、二人は最後の扉の前に立っていました——。
宮沢賢治は生前、25歳の若さで書いたこの物語について「都会のブルジョワジーに対する地方の若者の怒り」がこめられていると語ったそうです。
なるほど、二人の紳士が軽佻浮薄で不謹慎な輩だということは、物語の序盤からこれでもかと示されています。
この物語の真髄は、そんな都会の特権階級である紳士たちが、自らの手で自分を「美味しく」仕上げていく滑稽さにあります。
もちろん、「身なりをきちんとせよ」「鉄砲と弾丸を置け」といった注文は、単に食べやすくするためだけでなく、「大自然に敬意を払え」「面白半分の殺生を止めよ」といったメッセージがこめられているとも解釈できるかもしれません。
紳士たちは、「えらいひと」が来店しているためドレスコードが厳しいのだと勘違いしていますが、店の奥にいるのは貴族などより遥かに畏敬の念を払うべき存在だったというわけです。
興味深いのは、クリームを塗り、酢(香水瓶の中身)を振りかけ、塩を揉み込む工程です。これらは現代の料理法に照らせば、肉を柔らかくし、臭みを消して味を整える「バターミルクフライ」の再現と言えるかもしれません。
【材料】
紳士の骨付き肉・・・2本 ※手に入らない場合は鶏もも肉で代用可
クリーム・・・・・・1/2カップ
酢・・・・・・・・・少々
塩・・・・・・・・・少々
小麦粉・・・・・・・適量
調理油・・・・・・・適量
菜っ葉(飾り用)・・・適量
【作り方】
骨付き肉にクリームをよく塗り込む
酢を振りかけて、代用バターミルクの風味にする
塩をよく揉みこむ
小麦粉の上を転がす
油でからっと揚げる
お皿にのせて菜っ葉を添える
少し冷ます
紳士たちは自分の慢心というスパイスに気づかず、せっせと「最高の一皿」への協力を惜しまなかったのです。
そんな彼らの目の前で「注文の多い料理店」の本当の意味が明らかになり、注文する側とされる側、狩る側と狩られる側が逆転する瞬間が鮮やかです。
物質的に豊かな現代の生活。一方で、情報の洪水に呑まれて地に足つかず、大切なことを忘れてしまっている面もあるのかもしれません。
豊穣な自然の恵みや、そこに生きる人々の忍耐深さがなければ、都会の一見豊かな暮らしなどたちまちにして崩れ去ってしまうわけですから……。
ある日気がついたら、私たち皆で「西洋料理店 山猫軒」の最後の扉の前に立ちつくしていた、なんてことにならなければいいのですが。
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傲慢な紳士のバターミルクフライ — 宮沢賢治「注文の多い料理店」より
「食べられちゃえばよかったのに」と、少しだけ残念に思った全ての方へ。本日は、宮沢賢治の不朽の名作「注文の多い料理店」より、「もし山猫軒のオーナーがクッキングに成功していたら」について考えてみたいと思います。
倒れた猟犬たちが助けに来てくれたことで間一髪、難を逃れた紳士たち。
しかし助けが来なかった場合、いったいどんな紳士料理ができあがっていたのでしょうか。
物語の面白さを味わいながら考察したいと思います。
すこし行きますとまた扉(と)があって、その前に硝子の壺が一つありました。扉には斯う書いてありました。
「壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください。」
みるとたしかに壺のなかのものは牛乳のクリームでした。
山奥へ狩猟に来た二人の紳士。霧の中で道に迷い、一軒の西洋料理店「山猫軒」を見つけます。
「どなたもどうかお入りください」という言葉に誘われ、空腹の二人は奥へ進みますが、次々と現れる扉には「金属類を外せ」「クリームを塗れ」「塩を揉みこめ」と奇妙な注文ばかり。
「自分たちは客ではなく、食材である」と気づくも時すでに遅し、二人は最後の扉の前に立っていました——。
宮沢賢治は生前、25歳の若さで書いたこの物語について「都会のブルジョワジーに対する地方の若者の怒り」がこめられていると語ったそうです。
なるほど、二人の紳士が軽佻浮薄で不謹慎な輩だということは、物語の序盤からこれでもかと示されています。
この物語の真髄は、そんな都会の特権階級である紳士たちが、自らの手で自分を「美味しく」仕上げていく滑稽さにあります。
もちろん、「身なりをきちんとせよ」「鉄砲と弾丸を置け」といった注文は、単に食べやすくするためだけでなく、「大自然に敬意を払え」「面白半分の殺生を止めよ」といったメッセージがこめられているとも解釈できるかもしれません。
紳士たちは、「えらいひと」が来店しているためドレスコードが厳しいのだと勘違いしていますが、店の奥にいるのは貴族などより遥かに畏敬の念を払うべき存在だったというわけです。
興味深いのは、クリームを塗り、酢(香水瓶の中身)を振りかけ、塩を揉み込む工程です。これらは現代の料理法に照らせば、肉を柔らかくし、臭みを消して味を整える「バターミルクフライ」の再現と言えるかもしれません。
【材料】
紳士の骨付き肉・・・2本 ※手に入らない場合は鶏もも肉で代用可
クリーム・・・・・・1/2カップ
酢・・・・・・・・・少々
塩・・・・・・・・・少々
小麦粉・・・・・・・適量
調理油・・・・・・・適量
菜っ葉(飾り用)・・・適量
【作り方】
骨付き肉にクリームをよく塗り込む
酢を振りかけて、代用バターミルクの風味にする
塩をよく揉みこむ
小麦粉の上を転がす
油でからっと揚げる
お皿にのせて菜っ葉を添える
少し冷ます
紳士たちは自分の慢心というスパイスに気づかず、せっせと「最高の一皿」への協力を惜しまなかったのです。
そんな彼らの目の前で「注文の多い料理店」の本当の意味が明らかになり、注文する側とされる側、狩る側と狩られる側が逆転する瞬間が鮮やかです。
物質的に豊かな現代の生活。一方で、情報の洪水に呑まれて地に足つかず、大切なことを忘れてしまっている面もあるのかもしれません。
豊穣な自然の恵みや、そこに生きる人々の忍耐深さがなければ、都会の一見豊かな暮らしなどたちまちにして崩れ去ってしまうわけですから……。
ある日気がついたら、私たち皆で「西洋料理店 山猫軒」の最後の扉の前に立ちつくしていた、なんてことにならなければいいのですが。
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#menu 五位の芋粥 — 芥川龍之介「芋粥」より
現実の味は、しばしば空想や思い出のなかのそれを超えることができないもの。
大切に抱えつづけていた夢の味ならなおのことでしょう。
古典を翻案したといわれる芥川龍之介の短篇「芋粥」より、憧れと幻滅の逸品をご紹介します。
ときは平安時代、主人公は風采のあがらない小役人で、作中ではただ『五位』と呼称されています。
見た目も才覚もぱっとせず、おとなしい性格ゆえに同僚たちからさんざんコケにされている五位。悪戯のレベルを明らかに超えた嫌がらせをされても、臆病な性格の彼は「いけぬのう、お身たちは」と弱々しく呟くのが関の山でした。
そんな彼にも、ひとつの夢がありました。
それは、『芋粥』を飽きるほど食べてみたいというもの。
芋粥とは「山の芋を中に切込んで、それを甘葛の汁で煮た、粥の事」と作中にはありますが、甘いとろろみたいな感じなのでしょうか。なかなか想像しづらいですが、五位にとってはめったに食べられない憧れの味であり、ただひとつの執着、欲望の対象なのでした。
ある日、芋粥をほんの僅か口にすることができた五位は思わず、「いつになったらこれに飽きることができるだろうか」という心の声を口に出してしまいます。
それを耳にした豪族・藤原利仁が、飽きるほど食べさせてやろうと持ちかけるのですが……。
たかが芋粥、されど芋粥。何度読んでもつらい話です。
めったに口に入らないからこそ、憧れと欲望を胸のなかで煮詰め、大切に抱えこんでいられた五位。
それが他人の手で、いとも容易く大量に用意され、「さあ飽きるほど食べていいぞ」と言われる。これは夢の実現ではなく、破壊にほかなりません。なみなみとつがれた芋粥を前に、五位が食欲をなくしたのも道理と言えましょう。
唯一の救いであり、個人的に強く印象に残っているのは、作中に登場する名前のない人物。
はじめは同僚と一緒になって五位をからかった彼ですが、「いけぬのう、お身たちは」と弱々しい抵抗にあってから、五位のなかに一人の『人間』を見いだすようになる。相対的に、世の中が下等に思えてくる。
この人物については、現代的な倫理が人のかたちをとり、作中唯一の良心として現れたような印象を持ちました。
飽いてみたいけれど、それは、飽いてしまいたくはないということ。そんな矛盾をはらんだ憧れの味に、私も覚えがある気がしています。
『芋粥』を失ったあと、五位がどんなふうに生きていくのか、他人事でない思いです。
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おじいさんが猫のために作るポテト・スープ — テリー・ファリッシュ「ポテト・スープが大好きな猫」より
猫舌のはずの猫でも、こんな優しいスープなら食べられるのでしょうか。
テリー・ファリッシュの絵本「ポテト・スープが大好きな猫」より、猫の大好物だという素朴で温かいスープをご紹介します。
テキサスの田舎で静かに暮らすおじいさんと年老いた雌猫。二人は毎日一緒に釣りに出かけますが、この猫は魚を捕るわけでもなく、ただ小舟に乗っているだけ。それでも、二人は互いに居心地の良い関係を築いていました。
そんなある日、おじいさんが買ってきた電気毛布が、二人の心地よいルーティンに小さな波紋を広げます。
本来、肉食であるはずの猫。猫舌だし、野菜のスープなんて興味を持ちそうにありません。
しかし、この猫を虜にするのは、豪華なメインディッシュではありません。おじいさんが芋の皮を剥き、丁寧に潰し、(そしてきっとちょうど良い温度に冷ました)『ポテト・スープ』なのです。
猫が飲みやすいよう浅い皿に注がれたスープは、きっとポタージュ状でしょう。乳糖に配慮するなら豆乳や少量の油脂でコクを出し、素材の甘みを引き出しているはずです。
挿絵を観察すると、おじいさんが使うのは素朴な道具ばかり。おじいさんの不器用な指先から伝わる愛情こそが、猫の嗅覚を刺激する最高のスパイスになっているに違いありません。
互いの距離感を大切にし、自立した個として振る舞いながらも、温かなスープという絆で結ばれた一人と一匹。その関係性は、猫好きで知られる村上春樹氏があとがきで「こんな晩年を送るのもいい」と吐露するほど、静かで、深い充足感に満ちています。
心まで冷えるような夜には、誰かのために作る温かいスープが、何よりの特効薬になるのかもしれません。
それではどうぞ、召し上がれ。
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現実の味は、しばしば空想や思い出のなかのそれを超えることができないもの。
大切に抱えつづけていた夢の味ならなおのことでしょう。
古典を翻案したといわれる芥川龍之介の短篇「芋粥」より、憧れと幻滅の逸品をご紹介します。
最後に、その山の芋が、一つも長筵の上に見えなくなつた時に、芋のにほひと、甘葛のにほひとを含んだ、幾道かの湯気の柱が、蓬々然として、釜の中から、晴れた朝の空へ、舞上つて行くのを見た。
ときは平安時代、主人公は風采のあがらない小役人で、作中ではただ『五位』と呼称されています。
見た目も才覚もぱっとせず、おとなしい性格ゆえに同僚たちからさんざんコケにされている五位。悪戯のレベルを明らかに超えた嫌がらせをされても、臆病な性格の彼は「いけぬのう、お身たちは」と弱々しく呟くのが関の山でした。
そんな彼にも、ひとつの夢がありました。
それは、『芋粥』を飽きるほど食べてみたいというもの。
芋粥とは「山の芋を中に切込んで、それを甘葛の汁で煮た、粥の事」と作中にはありますが、甘いとろろみたいな感じなのでしょうか。なかなか想像しづらいですが、五位にとってはめったに食べられない憧れの味であり、ただひとつの執着、欲望の対象なのでした。
ある日、芋粥をほんの僅か口にすることができた五位は思わず、「いつになったらこれに飽きることができるだろうか」という心の声を口に出してしまいます。
それを耳にした豪族・藤原利仁が、飽きるほど食べさせてやろうと持ちかけるのですが……。
たかが芋粥、されど芋粥。何度読んでもつらい話です。
めったに口に入らないからこそ、憧れと欲望を胸のなかで煮詰め、大切に抱えこんでいられた五位。
それが他人の手で、いとも容易く大量に用意され、「さあ飽きるほど食べていいぞ」と言われる。これは夢の実現ではなく、破壊にほかなりません。なみなみとつがれた芋粥を前に、五位が食欲をなくしたのも道理と言えましょう。
唯一の救いであり、個人的に強く印象に残っているのは、作中に登場する名前のない人物。
はじめは同僚と一緒になって五位をからかった彼ですが、「いけぬのう、お身たちは」と弱々しい抵抗にあってから、五位のなかに一人の『人間』を見いだすようになる。相対的に、世の中が下等に思えてくる。
この人物については、現代的な倫理が人のかたちをとり、作中唯一の良心として現れたような印象を持ちました。
飽いてみたいけれど、それは、飽いてしまいたくはないということ。そんな矛盾をはらんだ憧れの味に、私も覚えがある気がしています。
『芋粥』を失ったあと、五位がどんなふうに生きていくのか、他人事でない思いです。
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おじいさんが猫のために作るポテト・スープ — テリー・ファリッシュ「ポテト・スープが大好きな猫」より
猫舌のはずの猫でも、こんな優しいスープなら食べられるのでしょうか。
テリー・ファリッシュの絵本「ポテト・スープが大好きな猫」より、猫の大好物だという素朴で温かいスープをご紹介します。
この猫の好物は、おじいさんの作ってくれるポテト・スープでした。それもおじいさんが、この雌猫を気に入っている理由のひとつです。
――テリー・ファリッシュ『ポテト・スープが大好きな猫』(村上春樹訳、講談社文庫)より
テキサスの田舎で静かに暮らすおじいさんと年老いた雌猫。二人は毎日一緒に釣りに出かけますが、この猫は魚を捕るわけでもなく、ただ小舟に乗っているだけ。それでも、二人は互いに居心地の良い関係を築いていました。
そんなある日、おじいさんが買ってきた電気毛布が、二人の心地よいルーティンに小さな波紋を広げます。
本来、肉食であるはずの猫。猫舌だし、野菜のスープなんて興味を持ちそうにありません。
しかし、この猫を虜にするのは、豪華なメインディッシュではありません。おじいさんが芋の皮を剥き、丁寧に潰し、(そしてきっとちょうど良い温度に冷ました)『ポテト・スープ』なのです。
猫が飲みやすいよう浅い皿に注がれたスープは、きっとポタージュ状でしょう。乳糖に配慮するなら豆乳や少量の油脂でコクを出し、素材の甘みを引き出しているはずです。
挿絵を観察すると、おじいさんが使うのは素朴な道具ばかり。おじいさんの不器用な指先から伝わる愛情こそが、猫の嗅覚を刺激する最高のスパイスになっているに違いありません。
互いの距離感を大切にし、自立した個として振る舞いながらも、温かなスープという絆で結ばれた一人と一匹。その関係性は、猫好きで知られる村上春樹氏があとがきで「こんな晩年を送るのもいい」と吐露するほど、静かで、深い充足感に満ちています。
心まで冷えるような夜には、誰かのために作る温かいスープが、何よりの特効薬になるのかもしれません。
それではどうぞ、召し上がれ。
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#menu 霊長類学者がアフリカのジャングルで食べた昆虫料理 ― 山極寿一「人生で大事なことはみんなゴリラから教わった」より
!虫の苦手な方はご注意ください!
ゴリラ研究の第一人者である山極寿一(やまぎわ・じゅいち)先生。
京都大学の第26代総長をはじめ、数々の重要なポストを歴任してきた山極先生が、ゴリラを追い続けた半生を振り返るエッセイ集「人生で大事なことはみんなゴリラから教わった」より、衝撃の昆虫料理をご紹介します。
ゴリラに魅せられ、ゴリラを通じて人間を見つめ続けてきた山極先生の、人生のエッセンスが詰めこまれた本書。
まず印象的なのは、京都大学の学生だった頃から衰えないフィールドワーカーとしてのタフネスでしょうか。
日本の屋久島からコンゴ共和国のジャングルまで、生活上の不便や文化の違いをものともせず、現地の生活にとけこみながらゴリラを追い求め、ときにはジャングルで野宿をしながら観察を続ける。ケタ違いの適応力に驚くばかりです。
なかでも、現地の人びとに受け入れられたのは、山極先生がその地域の食文化に敬意を払い、みんなと同じものを楽しんで食べたことも大きいかもしれません。
そのひとつが、引用に掲げたジャングルの虫でした。食べられるイモムシは何種類もあり、シロアリは特においしかったとのことです。ゴリラも虫を食べるそうですから、山極先生はゴリラにもまた近づくことができたような気持ちだったのかもしれません。
食べるといえば、ゴリラや猿の仲間は、食べ物を一緒に囲んで食べるということをしないということも本書で改めて知りました。
猿は強い者から順に食べ物を手にできるし、ゴリラはシルバーバック(成熟して背中の毛が白くなったオス)がメスや子供に食べ物を分けることがあるけど、しぶしぶなんだとか(笑)
人間みたいに、みんなで食卓を囲んで友好を深めるのって実は凄くユニークなことなんだそうです。その視点はなかったなぁ……。
本書は比較的やさしい文章で書かれ、少し難しい単語には脚注がついていたりします。終盤は、ゴリラを通して人間を見つめ続けてきた著者ならではの人生哲学が語られており、小学校高学年から高校生くらいの子供たちにぜひ読んでもらいたいなと思う内容でした。
脳の容量から考えて、人間が安定的な関係を維持できる人数の上限は150人くらいなんだそうです(あとで調べたら、『ダンバー数』という概念でした)。
ゴリラと人間の対比でそんなことも書かれていて、自分にとっての150人は……と、つい考えてしまいました。
それにしても、おいしいイモムシってどんな味なんだろう……知りたいような、知りたくないような。
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!虫の苦手な方はご注意ください!
ゴリラ研究の第一人者である山極寿一(やまぎわ・じゅいち)先生。
京都大学の第26代総長をはじめ、数々の重要なポストを歴任してきた山極先生が、ゴリラを追い続けた半生を振り返るエッセイ集「人生で大事なことはみんなゴリラから教わった」より、衝撃の昆虫料理をご紹介します。
見ると、大きなとげのある、赤っぽいいも虫が、張りついている。きれいだなと思うと同時に、それがモクモク動くのを見て、少し気味が悪くなった。
すると、その青年はそれをつまみ取って、クズウコンの葉っぱに包んだ。あちこちに同じ虫が、張りついている。それを見て、みんないっせいに、虫を採集し始めた。いったい、こんな虫をどうするんだろう。
聞いてみると、これはおいしいんだと言う。ヤシ油でいため、塩で味つけをして食べる。実際、そうして料理されたいも虫をごちそうになった。悪くない味である。
ゴリラに魅せられ、ゴリラを通じて人間を見つめ続けてきた山極先生の、人生のエッセンスが詰めこまれた本書。
まず印象的なのは、京都大学の学生だった頃から衰えないフィールドワーカーとしてのタフネスでしょうか。
日本の屋久島からコンゴ共和国のジャングルまで、生活上の不便や文化の違いをものともせず、現地の生活にとけこみながらゴリラを追い求め、ときにはジャングルで野宿をしながら観察を続ける。ケタ違いの適応力に驚くばかりです。
なかでも、現地の人びとに受け入れられたのは、山極先生がその地域の食文化に敬意を払い、みんなと同じものを楽しんで食べたことも大きいかもしれません。
そのひとつが、引用に掲げたジャングルの虫でした。食べられるイモムシは何種類もあり、シロアリは特においしかったとのことです。ゴリラも虫を食べるそうですから、山極先生はゴリラにもまた近づくことができたような気持ちだったのかもしれません。
食べるといえば、ゴリラや猿の仲間は、食べ物を一緒に囲んで食べるということをしないということも本書で改めて知りました。
猿は強い者から順に食べ物を手にできるし、ゴリラはシルバーバック(成熟して背中の毛が白くなったオス)がメスや子供に食べ物を分けることがあるけど、しぶしぶなんだとか(笑)
人間みたいに、みんなで食卓を囲んで友好を深めるのって実は凄くユニークなことなんだそうです。その視点はなかったなぁ……。
本書は比較的やさしい文章で書かれ、少し難しい単語には脚注がついていたりします。終盤は、ゴリラを通して人間を見つめ続けてきた著者ならではの人生哲学が語られており、小学校高学年から高校生くらいの子供たちにぜひ読んでもらいたいなと思う内容でした。
脳の容量から考えて、人間が安定的な関係を維持できる人数の上限は150人くらいなんだそうです(あとで調べたら、『ダンバー数』という概念でした)。
ゴリラと人間の対比でそんなことも書かれていて、自分にとっての150人は……と、つい考えてしまいました。
それにしても、おいしいイモムシってどんな味なんだろう……知りたいような、知りたくないような。
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#menu 小留知先生のイラクサのスープ―堀江敏幸「イラクサの庭」より
誰かの抱えた痛みの気配にふれるのは、このスープを味わうようなものなのかもしれません。
堀江敏幸の短篇小説「イラクサの庭」より、複雑な味のするイラクサのスープをご紹介します。
『小留知(おるち)先生』は若い頃にフランス料理を学び、『雪沼』と呼ばれる地域で料理教室とレストランを営んできた女性です。もともとは東京の外れから移住してきたのですが、料理教室の生徒さんやご近所さんにも慕われ、すっかり地域に根づいて長年暮らしてきました。
そんな彼女が体調を崩してあっという間にこの世を去ってしまったのが数日前のこと。物語は、彼女に縁のあった人びとがしみじみと語り合う場面から始まります。
語り手の実山さんは、もともとは料理教室の生徒でしたが、徐々に小留知先生のアシスタントのような立場となって彼女の晩年を支えてきました。ついには臨終にも立ち会った実山さんですが、先生の最期の言葉をうまく聴きとれなかったことを気に病んでいます。
『コリザ』。
先生はそう言ったように聞こえたのですが、果たして『コリザ』とは?
思い出話に花を咲かせるうち、小留知先生が蔵書の一冊のある部分に下線をひいていたことを知った実山さん。一見何の変哲もない描写に、なぜ先生は惹きつけられたのか。
考えをめぐらせた実山さんは次の瞬間、『コリザ』の正体に思い至るのでした。
堀江敏幸が描く『雪沼』の空気はひんやりと澄んでいて、どこか秘密の匂いがします。
本作に登場する『イラクサのスープ』は、その象徴のように感じられました。今際の言葉『コリザ』、そしてイラクサに囲まれた庭の中に小留知先生が抱えつづけていた、胸をえぐられるようなある秘密。
敬愛する先生の分身ともいえる料理でありながら、実山さんがどうしても受けつけられなかったその味は、読んでいるこちらの舌にまで、ヒリヒリとした痛みを伴って伝わってくるようです。
静かな夜、スープの湯気の向こう側に、誰にも言えない秘密を隠し持っている人にこそ、この一冊を手に取ってほしいと思いました。
本作は短篇集『雪沼とその周辺』に収録されています。表題のとおり、雪沼と呼ばれる地域に暮らす人びとを描く8作品がおさめられています。雪沼の人びとは、言ってみればどこにでもいる普通の人たちですが、物語は紋切り型の解釈を許さず、彼らの人間としての深淵、断層が顔をのぞかせる瞬間を緊迫感と共に捉えています。静謐さと、厳しくも優しいまなざしを感じる筆致です。
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誰かの抱えた痛みの気配にふれるのは、このスープを味わうようなものなのかもしれません。
堀江敏幸の短篇小説「イラクサの庭」より、複雑な味のするイラクサのスープをご紹介します。
つくり方はじつに簡単だった。若いイラクサを摘んで葉をむしり、賽の目に切ったジャガイモ、たまねぎといっしょに三十分ほど煮込み、ミキサーにかける。鍋に戻して塩、胡椒で味をととのえ、仕あげに生クリームをくわえる。実山さんは、このとき生まれてはじめて外国製のミキサーを見たのだった。味のほうは、おいしいといえばおいしい、そうでないといえばそうでないとしか言えなかった。草の匂いがぷんと鼻について苦みと酸味のわりあいが一定せず、口に入れるたびに舌の表と裏で刺激がくるくる変化するような感覚だった。
『小留知(おるち)先生』は若い頃にフランス料理を学び、『雪沼』と呼ばれる地域で料理教室とレストランを営んできた女性です。もともとは東京の外れから移住してきたのですが、料理教室の生徒さんやご近所さんにも慕われ、すっかり地域に根づいて長年暮らしてきました。
そんな彼女が体調を崩してあっという間にこの世を去ってしまったのが数日前のこと。物語は、彼女に縁のあった人びとがしみじみと語り合う場面から始まります。
語り手の実山さんは、もともとは料理教室の生徒でしたが、徐々に小留知先生のアシスタントのような立場となって彼女の晩年を支えてきました。ついには臨終にも立ち会った実山さんですが、先生の最期の言葉をうまく聴きとれなかったことを気に病んでいます。
『コリザ』。
先生はそう言ったように聞こえたのですが、果たして『コリザ』とは?
思い出話に花を咲かせるうち、小留知先生が蔵書の一冊のある部分に下線をひいていたことを知った実山さん。一見何の変哲もない描写に、なぜ先生は惹きつけられたのか。
考えをめぐらせた実山さんは次の瞬間、『コリザ』の正体に思い至るのでした。
堀江敏幸が描く『雪沼』の空気はひんやりと澄んでいて、どこか秘密の匂いがします。
本作に登場する『イラクサのスープ』は、その象徴のように感じられました。今際の言葉『コリザ』、そしてイラクサに囲まれた庭の中に小留知先生が抱えつづけていた、胸をえぐられるようなある秘密。
敬愛する先生の分身ともいえる料理でありながら、実山さんがどうしても受けつけられなかったその味は、読んでいるこちらの舌にまで、ヒリヒリとした痛みを伴って伝わってくるようです。
静かな夜、スープの湯気の向こう側に、誰にも言えない秘密を隠し持っている人にこそ、この一冊を手に取ってほしいと思いました。
本作は短篇集『雪沼とその周辺』に収録されています。表題のとおり、雪沼と呼ばれる地域に暮らす人びとを描く8作品がおさめられています。雪沼の人びとは、言ってみればどこにでもいる普通の人たちですが、物語は紋切り型の解釈を許さず、彼らの人間としての深淵、断層が顔をのぞかせる瞬間を緊迫感と共に捉えています。静謐さと、厳しくも優しいまなざしを感じる筆致です。
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