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#menu 空飛ぶアップルパイ — ジョーン・エイキン「空のかけらをいれてやいたパイ」

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更新時期が近づいているレンタルサーバーを他社に移行するか考え中。具体的にはエックスサーバーから現在のドメインも引き払うかたちでロリポップサーバーへ。考え中というか、もう気持ちはだいぶそちらへ傾いているのだが、引越し作業をどのように成功させるかだけが懸念点。

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傲慢な紳士のバターミルクフライ — 宮沢賢治「注文の多い料理店」より

​「食べられちゃえばよかったのに」と、少しだけ残念に思った全ての方へ。本日は、宮沢賢治の不朽の名作「注文の多い料理店」より、「もし山猫軒のオーナーがクッキングに成功していたら」について考えてみたいと思います。
 倒れた猟犬たちが助けに来てくれたことで間一髪、難を逃れた紳士たち。
 しかし助けが来なかった場合、いったいどんな紳士料理ができあがっていたのでしょうか。
 物語の面白さを味わいながら考察したいと思います。
すこし行きますとまた扉(と)があって、その前に硝子の壺が一つありました。扉には斯う書いてありました。
「壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください。」
みるとたしかに壺のなかのものは牛乳のクリームでした。

 山奥へ狩猟に来た二人の紳士。霧の中で道に迷い、一軒の西洋料理店「山猫軒」を見つけます。
 「どなたもどうかお入りください」という言葉に誘われ、空腹の二人は奥へ進みますが、次々と現れる扉には「金属類を外せ」「クリームを塗れ」「塩を揉みこめ」と奇妙な注文ばかり。
 「自分たちは客ではなく、食材である」と気づくも時すでに遅し、二人は最後の扉の前に立っていました——。

 宮沢賢治は生前、25歳の若さで書いたこの物語について「都会のブルジョワジーに対する地方の若者の怒り」がこめられていると語ったそうです。
 なるほど、二人の紳士が軽佻浮薄で不謹慎な輩だということは、物語の序盤からこれでもかと示されています。

 この物語の真髄は、そんな都会の特権階級である紳士たちが、自らの手で自分を「美味しく」仕上げていく滑稽さにあります。
 もちろん、「身なりをきちんとせよ」「鉄砲と弾丸を置け」といった注文は、単に食べやすくするためだけでなく、「大自然に敬意を払え」「面白半分の殺生を止めよ」といったメッセージがこめられているとも解釈できるかもしれません。
 紳士たちは、「えらいひと」が来店しているためドレスコードが厳しいのだと勘違いしていますが、店の奥にいるのは貴族などより遥かに畏敬の念を払うべき存在だったというわけです。
 興味深いのは、クリームを塗り、酢(香水瓶の中身)を振りかけ、塩を揉み込む工程です。これらは現代の料理法に照らせば、肉を柔らかくし、臭みを消して味を整える「バターミルクフライ」の再現と言えるかもしれません。

【材料】
紳士の骨付き肉・・・2本 ※手に入らない場合は鶏もも肉で代用可
クリーム・・・・・・1/2カップ
酢・・・・・・・・・少々
塩・・・・・・・・・少々
小麦粉・・・・・・・適量
調理油・・・・・・・適量
菜っ葉(飾り用)・・・適量

【作り方】
骨付き肉にクリームをよく塗り込む
酢を振りかけて、代用バターミルクの風味にする
塩をよく揉みこむ
小麦粉の上を転がす
油でからっと揚げる
お皿にのせて菜っ葉を添える
少し冷ます

​ 紳士たちは自分の慢心というスパイスに気づかず、せっせと「最高の一皿」への協力を惜しまなかったのです。
​ そんな彼らの目の前で「注文の多い料理店」の本当の意味が明らかになり、注文する側とされる側、狩る側と狩られる側が逆転する瞬間が鮮やかです。

 物質的に豊かな現代の生活。一方で、情報の洪水に呑まれて地に足つかず、大切なことを忘れてしまっている面もあるのかもしれません。
 豊穣な自然の恵みや、そこに生きる人々の忍耐深さがなければ、都会の一見豊かな暮らしなどたちまちにして崩れ去ってしまうわけですから……。
 ある日気がついたら、私たち皆で「西洋料理店 山猫軒」の最後の扉の前に立ちつくしていた、なんてことにならなければいいのですが。
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#menu 五位の芋粥 — 芥川龍之介「芋粥」より

 現実の味は、しばしば空想や思い出のなかのそれを超えることができないもの。
 大切に抱えつづけていた夢の味ならなおのことでしょう。
 古典を翻案したといわれる芥川龍之介の短篇「芋粥」より、憧れと幻滅の逸品をご紹介します。
最後に、その山の芋が、一つも長筵の上に見えなくなつた時に、芋のにほひと、甘葛のにほひとを含んだ、幾道かの湯気の柱が、蓬々然として、釜の中から、晴れた朝の空へ、舞上つて行くのを見た。
 ときは平安時代、主人公は風采のあがらない小役人で、作中ではただ『五位』と呼称されています。
 見た目も才覚もぱっとせず、おとなしい性格ゆえに同僚たちからさんざんコケにされている五位。悪戯のレベルを明らかに超えた嫌がらせをされても、臆病な性格の彼は「いけぬのう、お身たちは」と弱々しく呟くのが関の山でした。
 そんな彼にも、ひとつの夢がありました。
 それは、『芋粥』を飽きるほど食べてみたいというもの。
 芋粥とは「山の芋を中に切込んで、それを甘葛の汁で煮た、粥の事」と作中にはありますが、甘いとろろみたいな感じなのでしょうか。なかなか想像しづらいですが、五位にとってはめったに食べられない憧れの味であり、ただひとつの執着、欲望の対象なのでした。
 ある日、芋粥をほんの僅か口にすることができた五位は思わず、「いつになったらこれに飽きることができるだろうか」という心の声を口に出してしまいます。
 それを耳にした豪族・藤原利仁が、飽きるほど食べさせてやろうと持ちかけるのですが……。

 たかが芋粥、されど芋粥。何度読んでもつらい話です。
 めったに口に入らないからこそ、憧れと欲望を胸のなかで煮詰め、大切に抱えこんでいられた五位。
 それが他人の手で、いとも容易く大量に用意され、「さあ飽きるほど食べていいぞ」と言われる。これは夢の実現ではなく、破壊にほかなりません。なみなみとつがれた芋粥を前に、五位が食欲をなくしたのも道理と言えましょう。

 唯一の救いであり、個人的に強く印象に残っているのは、作中に登場する名前のない人物。
 はじめは同僚と一緒になって五位をからかった彼ですが、「いけぬのう、お身たちは」と弱々しい抵抗にあってから、五位のなかに一人の『人間』を見いだすようになる。相対的に、世の中が下等に思えてくる。
 この人物については、現代的な倫理が人のかたちをとり、作中唯一の良心として現れたような印象を持ちました。

 飽いてみたいけれど、それは、飽いてしまいたくはないということ。そんな矛盾をはらんだ憧れの味に、私も覚えがある気がしています。
 『芋粥』を失ったあと、五位がどんなふうに生きていくのか、他人事でない思いです。
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おじいさんが猫のために作るポテト・スープ — テリー・ファリッシュ「ポテト・スープが大好きな猫」より

 猫舌のはずの猫でも、こんな優しいスープなら食べられるのでしょうか。
​ テリー・ファリッシュの絵本「ポテト・スープが大好きな猫」より、猫の大好物だという素朴で温かいスープをご紹介します。
この猫の好物は、おじいさんの作ってくれるポテト・スープでした。それもおじいさんが、この雌猫を気に入っている理由のひとつです。
――テリー・ファリッシュ『ポテト・スープが大好きな猫』(村上春樹訳、講談社文庫)より

 テキサスの田舎で静かに暮らすおじいさんと年老いた雌猫。二人は毎日一緒に釣りに出かけますが、この猫は魚を捕るわけでもなく、ただ小舟に乗っているだけ。それでも、二人は互いに居心地の良い関係を築いていました。
 そんなある日、おじいさんが買ってきた電気毛布が、二人の心地よいルーティンに小さな波紋を広げます。

 本来、肉食であるはずの猫。猫舌だし、野菜のスープなんて興味を持ちそうにありません。
 しかし、この猫を虜にするのは、豪華なメインディッシュではありません。おじいさんが芋の皮を剥き、丁寧に潰し、(そしてきっとちょうど良い温度に冷ました)『ポテト・スープ』なのです。
 猫が飲みやすいよう浅い皿に注がれたスープは、きっとポタージュ状でしょう。乳糖に配慮するなら豆乳や少量の油脂でコクを出し、素材の甘みを引き出しているはずです。
 挿絵を観察すると、おじいさんが使うのは素朴な道具ばかり。おじいさんの不器用な指先から伝わる愛情こそが、猫の嗅覚を刺激する最高のスパイスになっているに違いありません。
​ 互いの距離感を大切にし、自立した個として振る舞いながらも、温かなスープという絆で結ばれた一人と一匹。その関係性は、猫好きで知られる村上春樹氏があとがきで「こんな晩年を送るのもいい」と吐露するほど、静かで、深い充足感に満ちています。
 心まで冷えるような夜には、誰かのために作る温かいスープが、何よりの特効薬になるのかもしれません。
​ それではどうぞ、召し上がれ。
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#menu 芝山さんの大根の煮物 ― 今村夏子「冷たい大根の煮物」より

 人との出会いはときとして素晴らしいものですが、ほろ苦い教訓を残していくことも多いもの。
 今村夏子の短篇「冷たい大根の煮物」より、そんな人生の滋味を感じる煮物をご紹介します。
 コンロの上の片手鍋に手を伸ばし、アルミホイルのふたを外すとしょうゆのにおいがぷんとあたりに漂った。
 鍋から直接箸でつまんで口に入れた大根の煮物はすっかり冷たくなっていた。

 主人公(『わたし』)は、最近ひとり暮らしを始め、プラスチック工場で働いている19歳の女性。まだ「女の子」と言ってしまっていいような若さですね。
 プラスチック工場での仕事は面白くないけれど、念願だったひとり暮らしを続けるために頑張っている主人公。その食生活はカップ麺に弁当、菓子パンと、控えめに言って崩壊しています。
 ある日、同じ工場に勤める『芝山さん』という中年女性と知り合いになります。ひとり暮らし先の近くにある激安スーパーを紹介してくれと一方的に頼まれ、断れなかった主人公。ところがこの芝山さん、『お金を借りて返さない』と言った悪い噂があるようで、主人公はだいぶ身構えてしまいます。
 さて、激安スーパーにご満悦の芝山さん。主人公の食生活が前述のとおり大崩壊していることを知ると、ひとり暮らしの狭い家に押しかけて手早く料理を作ってくれました。
 いつしか、買い物ついでに料理を作り置きしてくれる芝山さんに慣れた『わたし』。芝山さんは芝山さんで、自分の家族の分まで主人公宅で調理して光熱費をフリーライドしていたりもするので、Win-Winというか共生というか、そんな関係性に落ち着きました。
 芝山さんの悪い噂を鵜呑みにして警戒していた自分を恥じる主人公。そんなある日——。

 この話、後味がいいわけではないものの、どこかハッピーエンド感があるのが不思議です。厚かましく図々しくありながら、面倒見がいい面もある芝山さんの人物像が魅力的だからでしょうか。
 カップ麺や菓子パンくらいしかない家で育ったという『わたし』が、外の世界の洗礼を受けて、本当の意味での自立へと、一歩踏み出した印象があるからかもしれません。『搾取してくる冷たさ』と、『気にかけてくれる温かさ』という人間の両面を、彼女はうまく飲み込んだように私には見えました。

 本作が収録されているのは短篇集「とんこつQ&A」。表題作含め、粒ぞろいの面白い短篇が4作収録されています。
 私は初めAudibleで聴いたのですが、本当に「解釈一致」と膝を打ちたくなる素晴らしい朗読で、紙面で読むのとは別の楽しい読書体験ができました。

 さて、ほろ苦く冷たくて、でも消化には優しい「冷たい大根の煮物」。
 そんな料理に心当たりはありますか?
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音までおいしいホットケーキ — わかやまけん「しろくまちゃんのほっとけーき」より

​ ホットケーキが焼ける場面に、子供のころ夢中になったという人も多いはず。
 わかやまけんの絵本「こぐまちゃんシリーズ」の傑作「しろくまちゃんのほっとけーき」より、あの名場面を振り返ります。
ぽたあん どろどろ ぴちぴちぴち
ぷつぷつ やけたかな まあだまだ

​ 1972年の刊行以来、300万部以上も刷り重ねられてきたロングセラー絵本。ページをめくれば、あの鮮やかなオレンジ色の背景と、ホットケーキの焼ける香ばしい匂いが、何十年という時を超えて鼻腔をくすぐります。
​ 特筆すべきは、中盤の見開きいっぱいに描かれた調理場面のオノマトペ。
 フライパンの上で生地が変化していく様子を、「ぷつぷつ」「ふくふく」といった魔法の擬音で捉えたこの場面は、日本の絵本史に残る最高峰のシズル感と言えるでしょう。
​ 私が子供だった頃、母は子供達に何度も「しろくまちゃんのほっとけーき」の読み聞かせをねだられ、ついにはキッチンからそらで読み聞かせをするまでになっていたそうです(笑)
 私の子供も、生後数ヶ月から、コントラストの強い鮮やかな色彩と心地よいリズムに目を輝かせていました。
​ なぜこれほどまでに、私たちはこの絵本に惹かれるのでしょうか。
 それは、しろくまちゃんが材料を揃え、がたごと揺れるボウルを必死にまぜ、自分の手で焼きあげる「自立と達成の物語」だからかもしれません。
 最後には友達のこぐまちゃんと分け合って食べる食卓の温かさ。この本には、人間が「食べること」に抱く根源的な喜びのすべてが詰まっているようです。
​【一皿の再現:しろくまちゃん風ホットケーキ】
​ 絵本を読み終えたら、ぜひ台所へ。
​材料: 卵1個、牛乳150ml、薄力粉200g、砂糖大さじ2、ベーキングパウダー小さじ2。
​コツ: フライパンを一度濡れ布巾で冷ますこと。これで、絵本のようなムラのない焦げ茶色が手に入ります。
​ かつて母がキッチンから(そらで)読み聞かせてくれたあの声。
 今度は私が我が子に、焼きたての湯気の温かさや、誰かと食べる嬉しさと共に、この物語を伝えていこうと思います。
​ それではどうぞ、童心にかえって召し上がれ。畳む


​受け取ってもらえなかった手作りクッキー — 今村夏子「木になった亜沙」より

​ 手作りのクッキーにまつわる思い出、ありますか?
 今村夏子の短篇「木になった亜沙」より、せっかく作ったのに受け取ってもらえなかったクッキーをご紹介します。
クッキーは上手に焼けた。亜沙のアイデアで生地にレーズンとピーナッツを混ぜこんだのが正解だった。あと十枚は味見したいところをぐっとこらえて袋に詰めると、ピンク色のリボンで口を結んだ。
 翌日、山崎シュン君は亜沙が『これ食べて』といって差しだしたクッキーを『いらないよ』といって突き返した。

​ 主人公の亜沙は、心優しい普通の女の子。しかし彼女には、差し出す食べ物を誰ひとりとして口にしてくれないという数奇な宿命がありました。
 友達も、片想いの男の子も、金魚や野生動物でさえ、彼女の手からは何も受け取ろうとしません。亜沙が心をこめて焼いた「レーズンとピーナッツ入りのクッキー」も、リボンで飾られたまま無慈悲に突き返されます。
​ 統計を調べたことがありますが、レーズンは日本人の約三割が苦手とする食材だそうです(2019年、日本レーズン協会調べ)。
 (ちなみに、何を隠そう私もレーズンはちょっと苦手です……。。)
 無難な型抜きクッキーやチョコチップクッキーではなく、あえてレーズン入りを選んでしまう亜沙の「少しだけ噛み合わない善意」が、切なさを加速させます。
 けれど、拒絶の理由は味ではありません。
 言ってしまえば、「亜沙が差し出すからダメ」なのです。なにしろ、亜沙がよそっただけの給食の一品をクラスメイト全員が残すのですから。
 とても理不尽に感じられるけれど、きっと拒む側にもそれなりの理由が、理屈があるのでしょう。
 それでも、繰り返される拒絶の描写には胸が痛みました。おいしいものを分かち合おうとする無垢な心、繋がりや愛を求める切実な願いを、徹底的に拒まれ続ける。こんな孤独と断絶の描き方があるのかと思いました。
 今村夏子作品に登場する料理はどこか不穏で、しばしば非常に不味そうに描かれます。それは、愛や善意が必ずしも美しく消化されるわけではないという、この世界の真理を突きつけているかのようです。
​ さて、物語の後半、ある転調が訪れます。
 亜沙の差し出すものを食べてくれる存在が現れたのです。
 この「転」から結末に至る流れは、物悲しく、相変わらず理不尽でありながら、不思議な赦しと安らぎに満ちています。食べること、生きること。誰かを受け入れ、誰かに受け入れられることの難しさと愛しさで溢れているように感じました。
​ きっと一生懸命つくったのだろう、ほろ苦く、端っこの焦げたようなクッキー(レーズンとピーナッツ入り)。
 もし私が亜沙の前に立ったなら——。
 差し出されたその一枚を、受け取ってあげることができるだろうかと、ふと考えこんでしまいました。

 短篇集「木になった亜沙」は、著者のそれまでの作品に比べて、ファンタジー的な意味での幻想的な要素が強いように思えますが、今村夏子の真髄発揮という感じで、私はとても好きな一冊です。
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ねずみたちが織りなす四季折々の食卓 — ジル・バークレム「野ばらの村の物語」より

​ 絵本の扉の向こうに、何度でも心が帰ってゆける場所があるというのは、なんと幸福なことでしょうか。
 本日は、イギリスの絵本作家ジル・バークレムが描き出した小さなユートピア「野ばらの村」シリーズをご紹介します。
 春夏秋冬、働き者のねずみたちが作るさまざまな食べ物と飲み物を通じて、彼らの温かく満ち足りた日々をお届けしたいと思います。
ついに結婚式の日がやってきました。空は青くはれわたり、いつもよりもあつい日になりそうでした。野ばらの村の家の台所は、どこもあさから大いそがし。
つめたいクレソンのスープや、つみたてのタンポポのサラダ、ハチミツのクリームや、シラバブや、生クリームのケーキなど、どの家のねずみたちも、夏にぴったりな料理をつくっていました。

​ 「野ばらの村」は、働き者のねずみたちが自然と共生し、春夏秋冬を慈しむ小さなユートピアです。作者ジル・バークレムが、都会的で息苦しい満員電車のなかで目を閉じ、空想の中に築き上げたこの理想郷には、私たちが忘れかけている丁寧な暮らしのすべてが詰まっています。
​ 大きな魅力は、なんといっても緻密に描き込まれた住居の断面図でしょう。
 切り株や樹木の中に作られた家々。廊下や寝室、地下の貯蔵庫……。
 それらの中には可愛らしい小さな家具が並び、暖炉にはあかあかと火が燃え、台所の棚にミニチュアサイズの食器や保存食品の小瓶などがびっしり収められている様子が見て取れます。キッチンの作業台ではジャムが煮詰められ、布巾で覆われたプディングが蒸し上げられ、お菓子の生地が混ぜられています。
 棚にびっしりと並ぶジャムの小瓶やミニチュアの食器を眺めていると、まるでアリの巣観察キットを覗き込んでいるような、あの無邪気なわくわく感が蘇ります。
​ そして、それ以上に私たちの心を躍らせるのが、四季折々の食卓です。
 春にはサクラソウのプディング、夏には冷たいクレソンのスープ、秋にはあつあつのドングリコーヒー、そして冬には大鍋で温められるブラックベリーのポンチ。
 ねずみたちは、結婚式や雪まつりといった「ハレの日」はもちろん、日々の何気ないお茶の時間さえも、ハチミツや木の実、野の花を使って魔法のように彩ります。
​ 全8冊にわたる物語は、ねずみたちが野原や山で迷子になったり、塩不足で船を出したり、新たな命が誕生したりといった冒険に満ちています。けれど、どんな事件が起きても、最後には必ず温かい食卓と、仲間の輪が待っている。その絶対的な安心感こそが、この絵本を時を超えた名作にしているのだと感じます。
 薔薇の花びらのワイン、甘い香りのシラバブ、栗やビルベリーのスープに、香ばしいキャラウェイのビスケット。
​ 『満員電車』に疲れたときは、しばし目を閉じて、澄んだ光あふれる「野ばらの村」へ帰ってみませんか。畳む

ひどい頭痛。ゴールデンウィーク中は気圧の変化に注意、とYahooニュースに出ていた。気象病も広く知られるようになったのだなあ。

日記

#menu 霊長類学者がアフリカのジャングルで食べた昆虫料理 ― 山極寿一「人生で大事なことはみんなゴリラから教わった」より

!虫の苦手な方はご注意ください!

 ゴリラ研究の第一人者である山極寿一(やまぎわ・じゅいち)先生。
 京都大学の第26代総長をはじめ、数々の重要なポストを歴任してきた山極先生が、ゴリラを追い続けた半生を振り返るエッセイ集「人生で大事なことはみんなゴリラから教わった」より、衝撃の昆虫料理をご紹介します。
見ると、大きなとげのある、赤っぽいいも虫が、張りついている。きれいだなと思うと同時に、それがモクモク動くのを見て、少し気味が悪くなった。
 すると、その青年はそれをつまみ取って、クズウコンの葉っぱに包んだ。あちこちに同じ虫が、張りついている。それを見て、みんないっせいに、虫を採集し始めた。いったい、こんな虫をどうするんだろう。
 聞いてみると、これはおいしいんだと言う。ヤシ油でいため、塩で味つけをして食べる。実際、そうして料理されたいも虫をごちそうになった。悪くない味である。

 ゴリラに魅せられ、ゴリラを通じて人間を見つめ続けてきた山極先生の、人生のエッセンスが詰めこまれた本書。
 まず印象的なのは、京都大学の学生だった頃から衰えないフィールドワーカーとしてのタフネスでしょうか。
 日本の屋久島からコンゴ共和国のジャングルまで、生活上の不便や文化の違いをものともせず、現地の生活にとけこみながらゴリラを追い求め、ときにはジャングルで野宿をしながら観察を続ける。ケタ違いの適応力に驚くばかりです。
 なかでも、現地の人びとに受け入れられたのは、山極先生がその地域の食文化に敬意を払い、みんなと同じものを楽しんで食べたことも大きいかもしれません。
 そのひとつが、引用に掲げたジャングルの虫でした。食べられるイモムシは何種類もあり、シロアリは特においしかったとのことです。ゴリラも虫を食べるそうですから、山極先生はゴリラにもまた近づくことができたような気持ちだったのかもしれません。

 食べるといえば、ゴリラや猿の仲間は、食べ物を一緒に囲んで食べるということをしないということも本書で改めて知りました。
 猿は強い者から順に食べ物を手にできるし、ゴリラはシルバーバック(成熟して背中の毛が白くなったオス)がメスや子供に食べ物を分けることがあるけど、しぶしぶなんだとか(笑)
 人間みたいに、みんなで食卓を囲んで友好を深めるのって実は凄くユニークなことなんだそうです。その視点はなかったなぁ……。

 本書は比較的やさしい文章で書かれ、少し難しい単語には脚注がついていたりします。終盤は、ゴリラを通して人間を見つめ続けてきた著者ならではの人生哲学が語られており、小学校高学年から高校生くらいの子供たちにぜひ読んでもらいたいなと思う内容でした。
 脳の容量から考えて、人間が安定的な関係を維持できる人数の上限は150人くらいなんだそうです(あとで調べたら、『ダンバー数』という概念でした)。
 ゴリラと人間の対比でそんなことも書かれていて、自分にとっての150人は……と、つい考えてしまいました。

 それにしても、おいしいイモムシってどんな味なんだろう……知りたいような、知りたくないような。
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